鈴原るるの追悼

昨日、鈴原るるが引退発表をした。


発表された時僕はPSO21人黙々とレベリングしていて、裏で鈴原の配信を流しながら「あぁ、そうなんだ」程度の感想と、まぁでもマイナスな理由ではないんだろうな、なんていうなんの根拠も生産性もない憶測を抱いたのを覚えている。

僕にとっての鈴原はその程度の存在で、僕は熱心なファンというわけではなかった。そもそもファンですらなかったかもしれない。鈴原のメンバーシップに入っている訳ではなく、鈴原の配信にコメントを残したことはない。リングフィット10時間配信などのコンテンツ力ある題材を友人に面白おかしく話した記憶はあるが、所詮その程度である。布教ですらない、コンテンツとしての消費。それが僕にとっての鈴原るるだだった。


一夜明けて、PS4を起動して、昨日の続きをしようとPSO2を開いた。PSO2というゲームは作業になりがちで、単体でやるにはキツイのでいつものように鈴原の配信アーカイブも開いた。そこで初めて、来月にはこの声が更新されないんだなぁと気づいた。

前述したように僕は鈴原の熱心なファンではないけれど、鈴原の配信はよく聞いていた。見ていた、ではない。大抵の場合、グラブルPSO2などの作業ゲーをやる時。あとは勉強をしたり、絵を描く時。古いiphoneにイヤホンを刺して、鈴原の長時間配信を再生するのだ。1番よく再生したのはジャンプキングのあけおめ配信で、何回も聞いた話の内容をBGMに作業をするのが習慣だった。そのぐらい鈴原の声はBGMに適していた。あのウィスパーボイスと、配信者らしからぬテンションと、コロコロとした笑い声を背景に作業することが好きだった。

ファンではなかったかもしれないが、鈴原の声が好きだった。

メンバーシップを入ってないし、コメントも残したことはないけれど、間違いなく私もあの独特なウィスパーボイスに魅了されたうちの1人だったのだと、さっき、気がついた。


気が付かなければよかった。

今まで、僕はコンテンツとして消費する側だったのに、居なくなるとわかってから好きと気付かせるなどズルいではないか。


僕はVtuberを長いこと追っているが、今までどんなVが引退しようと「残念だな」以上の気持ちを持つことはなかった。それはあくまでVをコンテンツとして認識しているからで、面白いか面白くないかを基準として判断しているからだ。面白いコンテンツがひとつ無くなったところで、他にも面白いことは世の中に沢山ある。そのうちのひとつが無くなることは残念だけれど、逆に言えばそれだけだったのだ。

しかし、ここに来て初めてそれより上の感情に気づいてしまった。それは好きという感情でもあるし、推しという感覚でもあるし、同時に悲しみでもあった。

僕は鈴原るるがいなくなることが、ひどく、悲しい。鈴原るるが死んでしまうことが、この上なく、悲しい。


Vtuberにとって、引退は死だ。

少なくとも僕の中のVはそういう存在だ。Vtuberを絵の動く生主と揶揄する人間も居るが、それはVの楽しみ方をわざと履き違えているにすぎない。Vの本質はロールプレイにある。それは配信者が、というよりも、視聴者が行うロールプレイだ。

Vがこの世にいないことなど百も承知の上で、あたかもVがこの世にいるように振る舞う。画面の上の動く絵と、画面の向こうの配信者と、画面の前の我々が架空の人物を作り出す。これがVtuberというコンテンツなのだ。そのどれもが欠けてはならない要素で、その前提を無視した揶揄など、フィクション小説をただの妄想だと蔑む輩と同類である。

そして、その前提を踏まえるなら、Vtuberにとっての引退は死と同義だ。画面の向こうの配信者が居なくなってしまったら、Vの姿かたちはただの絵だ。配信者が別の姿に転生しようと、それは我々が作り上げた架空の人物とは別の人間だ。Vtuberは配信の上でしか存在しえない不確かな虚像で、配信がなくなってしまったらそれで終わりなのだ。それは眠りなんて生易しいものではない。

我々の作り上げた虚像は、最後の配信の終わりと共に死ぬ。


初めて、推し、という感覚を知覚できた。

5日後、推しは死ぬ。

7月になったら、僕は死んだ推しのアーカイブを繰り返し流しながら、いつものようにそれをBGMにして作業するだろう。

更新されない動画欄を見て、熱心じゃない、ファンですらなかったかもしれない僕は後悔するのだろうか。

ただ漫然と鈴原というコンテンツを消費していた僕を恨むのだろうか。

生きていた鈴原を享受しなかった僕を。

更新されない動画欄を見ながら。

たしかに生きていた記録を貪りながら。